稚児人形

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天明八年(一七八八)の大火で消失した函谷鉾は天保十年(一八三九)に復興を果たしました。このとき、他町に先駆けて左大臣一条忠香公の御令息実良君(さねよしぎみ=明治天皇の后、昭憲皇太后の実兄)をモデルに稚児人形を製作、「嘉多丸(かたまる)」と命名していただきました。




当時、函谷鉾町は南側には松平阿波守の御屋敷、北側には鴻池の宅地等があり、町人の家は少なく、稚児を出せる家もなく、またその費用も鉾再建で大変でした。町内では木偶による人形稚児でもって稚児とする旨を願い出て、生き稚児を出せるまで、暫くの間、ということで許可されました。以前に函谷鉾町に住んでいた大佛師、七条左京という名工に作成を依頼、七条左京にとっても稚児人形は初めてのこと。どのような姿に彫刻すればよいのか図りかね、御所へ出入りしていたこともあって参殿した際、左大臣一条殿下に事の顛末をお話ししたところ、一条殿下は御長男の実良君が幸いにも御年頃でもあったので快くモデルに許可され、七条左京は精魂こめて実良君のお姿を模写し、製作にあたりました。





御長男、実良君をモデルとした稚児人形が完成したとき、一条忠香公は稚児人形に嘉多丸と命名され、御神号「祇園牛頭天王」の御筆掛軸と下着、襦袢、振袖、差貫(袴)、狩衣(かりぎぬ)の稚児衣装一式を函谷鉾町に寄贈されました。

身長百二十センチメートルで桧材を使った稚児人形の製作費用は近隣の下古京仲九町組の各町『革棚町(郭巨山町)、天神山町、山伏山町、童侍者町、善長寺町(綾傘鉾)、北袋屋町、西錦小路町、菊水鉾町』から寄贈されました。

天冠と鞨鼓は六角東洞院東入の市田理八からの寄贈で、中啓(扇子の大きいもの)は現烏丸三条上る十松屋扇子舗からの寄贈です。

西陣織の伝統技術があますところなく織り込められた稚児衣装は天保再建時は勿論大正七年(一九一八)、昭和五十四年(一九七九)にも西陣織工業組合より新調寄贈され、引き続き平成十九年(二〇〇七)には同組合西陣金襴部より創立一一〇周年記念として新調寄贈されました。

天保期の稚児衣装は古代装束の永久保存のため西陣織物同業組合に譲与され、現在も西陣織物館に保管されています。

天冠は大正七年(一九一八)に同組合から新たに新調寄贈され、中啓は平成十九年(二〇〇七)に十松屋扇子舗から新たに寄贈されました。








七月の祭期間中は豪奢な金襴の装いの嘉多丸君は例年七月十八日から翌年六月三十日まで、
普段着の振袖に着替えられ、休まれておられます。


祇園祭について、そして函谷鉾・保存会について、詳しくご紹介しております。「鉾や山を見る」・「巡行を楽しむ」だけでも良いのですが、その歴史、由来、願いなど多くの人々が積み上げてきたことを知って、実際の鉾や山をご覧いただくとより深く楽しんでいただけるのではないでしょうか。

そんな願いを込めてご紹介しておりますので、ぜひじっくり「函谷鉾」を知ってください。