函谷鉾の懸装品(屋根回り)

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屋根回りは飾り金物の宝庫だが費用も莫大なため、天保の再興時(一八三九)にはまだ余裕がなく、禁門の変の罹災(被害は軽微)もあり、明治十七年(一八八四)の破風、垂木などから順次整備新調された。

破風(はぶ)

消滅金浮彫で茅負(かやおい)に雲形模様、見付に桐が彫られ、「東、北流れ」「東、南流れ」「西、北流れ」「西、南流れ」の四つの部材が、鉾の東西(前後)それぞれに南北の"流れ"が切妻屋根の先端を飾るとともに屋根を守っている。南北の"流れ"が合わさる拝み(頂部)と左右に流れる中ほどの三ヶ所に金銅透かし彫りの鳳凰の八双金物が付けられている。両端は唐草が彫られ、懸魚(げぎょ)は三つ花で菊の丸彫りの鰭が付いている。明治十七年(一八八四)に前面(東)が、翌十八年に後面(西)が新調された。下絵は円山派の國井應文(くにいおうぶん)、錺(かざり)師は油小路七条の中野喜兵衛。彫金師は丸太町釜座の佐々木嘉兵衛によるもの。







垂木(たるき)、垂木間の広小舞の金物

左右の屋根裏(軒裏)の「北流れ」「南流れ」それぞれの外側に飛檐(ひえん)垂木二十本、内側に地(じ)垂木二十本、南北(左右)それぞれ四十本の繁垂木が七枚の屋根板(下段=飾りが付くため重い)とともに左右の軒先を飾る。牡丹彫刻の鼻金物の先には木瓜紋、巴紋の祇園神紋が彫られている。






垂木間の広小舞(ひろこまい)の金物

軒の外側の垂木(飛檐垂木)が並ぶ間の広小舞金物は國井應文の下絵によるもので、鉾の前から後へ、水葵(みずあおい)、海棠(かいどう)、菊、杜若(かきつばた)、紅葉、鉄仙(てっせん)、桜、水仙、牡丹、時計草、皐月、桔梗、秋海棠(しゅうかいどう)、百合、薔薇、梅、山茶花(さざんか)、芙蓉(ふよう)、南天、海棠の四季草花を地彫透し厚彫した精巧なもの。
錺師は中野喜兵衛、彫金師は寺町五条の田中光太郎。


なお、明治十七年十八年の二年間で新調された破風と垂木、広小舞金物の鍍金滅金には純金千二百七十五グラムが使われた。






獅子口

北流れ、南流れの屋根のあわせ目(屋根の最頂部)には黒輪違互形の透かし彫の箱棟があり、その前後の棟先の獅子口には経の巻三巻。獅子口の鰭(ひれ)には雲形の金箔押し金物が左右に流れる。




軒裏絵「鶏鴉図(けいあず)」

鉾の前の軒裏には金地に雄一羽、雌二羽、雛二羽の鶏が、後の軒裏には五羽の鴉(からす)の鶏鴉図が明治三十三年(一九〇〇)に円山四条派の今尾景年(いまおけいねん)の筆により新調された。この鶏鴉図は前部に極彩色の鶏で夜明けの鳴き声(陽)と、後部に墨絵の明鴉(あけがらす=陰)で夜明け前の函谷関を無事脱出できた故事を表現している。












妻板飾

軒裏の金地の三角形の妻板の前には彫刻が施され、前には木彫極彩色の林和靖(りんなせい=中国北宋の詩人)が唐団扇を持ち、童子が梅の木の下で白鶴に餌を与える図。後には白牡丹と荒波に亀の図。嘉永二年(一八四九)柴田杢之助の作。









虹梁(こうりょう=正面の一文字梁)、化粧柱

囃子屋台上、四本の化粧柱によって屋根は支えられ、よって櫓本体とは別に屋根は独立して水平方向にズレるために新町通での電柱、電線、民家、看板などの障害物を屋根方が押したりして避けることができる。四本の化粧柱の上端に梁を渡して屋根を支えるが、正面天水引の上の梁は虹梁と呼ばれ、今尾景年の下絵による雲鶴有職風霞鍍金彫金が施されている。また四本の化粧柱のうち左右の前二本にも同じく景年下絵による菊花模様厚彫が施され、明治三十六年(一九〇三)の新調。








欄縁

天保の再興以来、屋根回りや前部化粧柱、虹梁には飾り金物が整備されてきたが、側面、後面の梁、後部化粧柱、そして欄縁の飾り金具が残されていた。昭和五十七年(一九八二)に蓮田修吾郎の下絵による梅と鶯、松、竹のデザインを旧来の技法と違ってロスト・ワックス技法による精密鋳造技術を駆使して製作された金属造形である。








隅房掛

隅房掛は約三十センチメートルほどの極彩色金箔置木彫の源氏蝶で、隅房は金糸の長い丸組紐を、上からあげまき、蝶、桐紋、などが組まれ、房の先は胴掛よりも下部までと長い。


祇園祭について、そして函谷鉾・保存会について、詳しくご紹介しております。「鉾や山を見る」・「巡行を楽しむ」だけでも良いのですが、その歴史、由来、願いなど多くの人々が積み上げてきたことを知って、実際の鉾や山をご覧いただくとより深く楽しんでいただけるのではないでしょうか。

そんな願いを込めてご紹介しておりますので、ぜひじっくり「函谷鉾」を知ってください。